其の1「能海寛って、誰?」
能海寛(のうみ・ゆたか)ふるさと100キロを走る、あるいはどんな大会なのか関心をお持ちのランナーの皆さんに、10月の大会に向けて能海寛について、少しでも理解を深めていただければ、と思い、海宝さんのHPを借りて短かい連載をはじめることにします。テーマは、旅、チベット、仏教、です。チベットは、ヒマラヤ山脈の北の広大なひろがりです。首都ラサは標高3600メートルと、ほぼ富士山の高さに近い。その地をめざして、百年以上も前、どうして日本の青年僧が動き出したのか。走る前、あるいは走りながらなんとなく考えていただけたら、と思います。
その1 浄蓮寺での能海寛誕生と、仏教の受難
一八六八年(慶応四年=明治元年)五月十八日、石見国那珂郡東谷村(現在の島根県那珂郡金城町長田)の真宗大谷派浄蓮寺にひとりの男の子が生まれました。今回の100キロでは99キロ地点、ゴール直前に記念の写真を撮る場となるお寺です。
十二代住職、能海法幢・妻行乃の次男として生まれた、学問好き、好奇心旺盛なこの子が、のちの能海寛、このたびウルトラ・ランナーの皆さんが走るきっかけとなったチベット探検家です。
能海寛がチベットをめざすきっかけは、仏教でした。
皆さんは、仏教徒ですか?外国で宗教を聞かれたら、どう答えますか?
私は、正直仏教者とは言えません。でも、聞かれれば、どちらかといえば、仏教徒、と言うでしょう。キリスト教、イスラム教とは違う、という意味で。
多くの人たちもほぼ似た立場ではないかな、と想像します。
大体、私たちの宗教は、あまり首尾一貫していません。
お葬式の時は、仏式が多いし、お坊さんが読経し、参会者が焼香する仏教の儀式が営まれます。でも、一方、七五三のお祝いや結婚式などのめでたい行事は、多く神前、つまり神道にのっとって行われることが普通ですよね。
家庭には仏壇と神棚のふたつが存在することも一般的です。
仏教が日本に伝えられたのは、六世紀前半のことです。
それ以前から、日本には神道が存在したので、はじめは仏教と神道の衝突がありました。それが時代とともに調和するようになり、「神仏同体思想」が形成されました。神と仏が共存するという日本独特の宗教のかたちができた、といっていい、と思います。
たとえば、日光。千年以上にわたって、寺と神社が共存しているのが日光の独特なところです。東照寺と二荒(ふたら)神社、それに輪王寺の「一寺二社」で構成されているわけです。ついでながら「ふたら」は、チベットのラサにそびえるダライ・ラマの居城、ポタラ宮殿と同じ語源です。ふたらは、ポタラ。
華厳経に観音菩薩の住む山として出てくる「補陀落(ふだらく)」のことです。
鎖国が続いた江戸時代には仏教は国教的に保護され、権力支配の一翼を荷なってきました。それが、「王政復古」をうたう明治維新で崩れました。王政復古は、天皇を中心とし、公卿が補佐し、大名や武士はこれに属するという思想です。
能海寛が生まれた年の春、ある文章が全国のお寺と神社に通達されました。
<このたびの王政復古で古いしきたりを一掃するため、神社では僧の姿で神社の仕事をしてはいけない>
<すべての神社から僧侶を排斥し、社殿から仏像、経典、仏具を除くこと>
いわゆる「神仏分離令」と称されるものです。
神と仏を一緒にしてはいけない。分離とはいうものの、実は仏教をいっさい認めない、というに等しい、厳しい通達でした。
維新政府は、祭政一致、王政復古の方針に基づき、古神道の復活と国教化をめざして神仏分離に始まる宗教政策に踏み切ったわけです。
長い間、江戸幕府の保護政策にあぐらをかいていた仏教者たちの苦難が始まりました。 この通達を機に、仏教を批判する「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」
と呼ばれる運動が各地に起きました。あちこちで 寺が焼かれ、仏像が破壊されました。
能海寛が生まれたのは、その「神仏分離令」が出された直後だったのです。
仏教は、どうあるべきか。そういうテーマに仏教者が真剣に向かい合っていた時代に、能海は少年時代を過ごし、やがてチベット行きを決意するに至るのですが、その経緯と中国大陸での、脚力頼りの旅の様子を、次回以降に追ってゆくことにします。
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EMOTO Yoshinobu 江本嘉伸
著者:江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介