其の2 「能海寛の恩師の留学と、ダライ・ラマの選考」

能海寛(のうみ・ゆたか)の少年時代と、当時のチベット情勢の話をしばらくします。あっちこっち、話題が飛んですぐには頭に入ってこないかもしれませんが、細かいことはどんどん忘れてしまってください。
 明治とは、そういう時代だったんだ、チベットって、案外日本と関わりがあったんだな、というようなことを、ぼんやりわかってもらえればそれでいい、と思います。

 明治8年、寛7才の夏、父が病死しました。寛は、父の生家である広島県芸北町の専光寺で養育されることになりました。
 
 専光寺の名前、是非覚えておいてください。
 
 このたびの100キロ遠足の最後の方、温井ダム、王泊ダムを右手に見やりながら長い長い13・5キロの登りを終え、平坦となった84キロ地点でエイドを受けるお寺。古い、どっしりした門が歴史をしのばせる、風格のある建物です。

 そこには当時、伯父の安本界雄師がいて、少年の寛に学問と人の道を教えました。
 
 明治10年(1875年)6月、9歳になった能海は広島市寺町の円龍寺にあった「進徳教校」に入学します。
 「進徳教校」というのがユニークな存在でした。というより、学校そのものが新しい存在だったのですね。
 明治になって、国家の大事業となったひとつが「教育」です。
 欧米にならって「学校」という制度が採用され、教える内容、教科も新しいものとなりました。
 進徳教校は、そういう時代の空気の中で新たにできた西本願寺の学校で、先生も生徒も意欲にあふれていました。(能海が生まれた浄蓮寺は東本願寺系の寺ですが、教育についてはかなり自由に往来があったようです)
 寛は、ここで三年を学びました。

 知らない世界を知りたい。
 能海寛は、好奇心まるだしの少年でした。いや、当時は長い鎖国から覚め、日本自体が好奇心のかたまりになっている時代でした。
 たとえば、能海寛が4才の時の明治4年11月、横浜を出航した、あの有名な「米欧回覧使節団」。右大臣の岩倉具視以下、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文ら明治維新政府の重鎮がそろって、1年10ヶ月をかけてアメリカ、ヨーロッパ視察の旅をしました。西郷隆盛を「留守政府」の責任者として残したとはいえ、政府の中枢がそろって長期間、海外旅行をするというのだから、いまでは信じられないことです。それだけ情報がほしかった、必要だった、ということなのでしょう。

 仏教界も、海外事情を学ぶのに意欲的でした。寛が勉強に精出していたその頃、何人もの高名な仏教者たちが、イギリスやドイツへ宗教事情の視察に出かけていたのです。キリスト教の教育のシステム、伝道のやりかた、など仏教の危機に直面した僧侶たちが海外の事情から何かを学びとろう、と本気で海外に向かったのです。
 
 その中にひとりの青年学者がいました。
 東本願寺がサンスクリット語修学のために派遣した留学生で、南條文雄(なんじょう・ぶんゆう)といいます。
 後に能海のチベット行の動機となる人です。 
 
 明治9年6月13日、28才になった南條は笠原研寿(かさはら・けんじゅ)とともにフランスの郵船で横浜を出航しました。寛が「進徳教校」に入学する前年のことです。
 英語がまったくできず、不安でいっぱいの旅立ちでしたが、留学先のイギリス・オックスフォード(当時「牛津」と漢字表記されました)大学で師となるドイツ人学者、マックス・ミューラーからサンスクリット語を学ぶうち、言葉も学問も深まっていきました。

 南條は、8年に及ぶイギリスでの留学生活の中で、ミューラーにひとつの課題を与えられました。
 
 「チベットへ行ってくれ。日本人である君に行ってほしい」という、課題でした。
 
 チベット仏教を国教とするチベットには、仏教発祥の地、インドでは廃れてしまった貴重な仏教の原典がある、仏教を究めるためには、中国経由でチベットに入り、原典をもちかえることが大事だ、とミューラーは説いたのです。仏教を知り、欧米人と違い顔かたちがチベット人や中国人と似ている南條のような日本人青年学僧こそ、その使命を果たせる、とミューラーは考えたわけですね。
 このことが、やがて能海寛のチベット行につながってゆくのです。

 ところで、当時チベットでは重大なことが進行していました。ダライ・ラマの選考です。
 1875年、日本でいえば明治8年ですから、寛が父を亡くした年、ダライ・ラマ12世が亡くなりました。現在のダライ・ラマは14世ですから、先々代にあたります。わずか20才。毒殺された、とみられています。そして、いくつかの「予兆」や占いをもとに、かわりのダライ・ラマを選ぶ作業が進められていたのです。
 
 かってもっぱら「ラマ教」と呼ばれたチベット仏教は、深い教義と修学のシステムを持つ正統仏教ですが、唯一、「活仏制度」だけは、本来の仏教にはなかったものでした。
 簡単にいえば、徳のある高僧が死んだ後、その人の「生まれ変わり」を認める、という制度です。生まれ変わりと認められた子どもを「活仏」といい、亡くなった高僧のすべての財産を引き継ぐことができます。(それ故に権力争い
の原因ともなり、若くして毒殺されるような事態も起きます)
 中でも最高の活仏がダライ・ラマなのです。
 チベット政府の代表たちがラサの南東にある湖に行き、そのさざなみが示す啓示によって、ダライ・ラマの転生者(赤ちゃん)を探す探索隊が組織され、その結果、タクポと呼ばれる地域で1876年5月27日に生まれた男の子を発見しました。この子どもがダライ・ラマ13世です。チベットの独立をかけて戦い、日本とも深い関係を持った大変重要な人です。

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EMOTO Yoshinobu 江本嘉伸
著者:江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介


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