其の3 「能海寛の得度と向学心」
1880(明治12)年10月、11才の秋、能海寛は「得度」のため、ひとり京都の東本願寺まで旅をしました。
「得度(とくど)」とは、僧侶の資格を得ることです。
「度」は「渡」と同じ意味で、もともとは、迷いのこの世から悟りの世界へ渡ること、もしくは「輪廻の流れを渡る」ことを意味したそうです。
そのことから転じて剃髪して僧籍に入ることを指すようになった、といわれています。
それにしても、11才の少年が歩き、舟に乗って京都めざして旅する姿は、のちのチベット探検の折の青年僧の行動力を思い出させます。
当時、島根県の山に囲まれたお寺、浄蓮寺から京都に行くのにどのようなコースで行ったのでしょう。
まず、広島県の加計町まで4、50キロを歩き、太田川を舟で下り、宇品港から瀬戸内海を汽船で大阪湾まで行き、そこから列車に乗って京都にたどり着いたのだろう、と思います。加計まで4、50キロなどというと、かなりの距離に感じられますが、時限の違うこととはいえ、現代のウルトラ・ランナーは、寝ずに100キロ、200キロを走るのだから、自慢してもいいかもしれません。
能海は、この時「明治十二年 得度ニ付道中及入払帳」という面白い、旅の金銭出納帳を書き残しています。京都往復にかかった費用を細かく記録したもので、たとえば、こんな具合です。
「拾四銭 宿代」
「拾八銭 舟代」
「七厘 草履代」
「四銭 蒸気までの舟代」
「二円 蒸気代」
「二銭 そば代」
「五銭 下駄代」
「六銭 人力車代」
「蒸気」というのは、もちろん、列車のことでしょう。なにやかやで「11円43銭」かかった、と最後に記しています。
細かい記録をとるー。11才の少年時代から、能海寛は旅の極意のようなものを身に付けていたようです。
能海寛の時代、船着場のあった加計という町は、100キロ遠足の中間地点を越えるあたりからかなり広い範囲で通過することになります。
島根県金城町をスタートするこのコースは、かなりの部分が広島県の中です。
最初に県境の峠に出ると、すぐ広島県芸北町に入る。昨年10月に試走した折、八幡平という土地の朝もやが、幻想的で素晴らしかったのが印象的でした。
その後も、聖湖、とごうち花街道、と、コースは大自然の真っ只中を行き、そして、50kmを越え、加計に入ってからは風景が次第に変わっていくのです。
とりわけ驚いたのは、長い長い登り坂に沿って眺めた、ダムを抱えた深い峡谷でした。 平成14年(2002)に完成した温井ダムは、えん堤の高さ156m。総貯水量8.200万トン。
アーチ式コンクリートダムでは、富山県の黒部第4ダムに次ぐ、わが国第2位の高さだそうです。
ダム湖の湖畔には保養型のリゾートホテル「温井スプリングス」が、ダム湖中央に突き出る半島には自然生態公園が完成し、休日には多くの人々が訪れています。
ゆっくり走りながら、車で通り過ぎてはわからない中国山地の変化にあふれた世界を楽しむのも貴重な体験といえるでしょう。
能海寛は、明治14年9月、専光寺を辞して、自分の寺、浄蓮寺に帰りました。
ちょうど同じ時期、「島根県」が誕生します。島根は、出雲(いずも)、石見(いわみ)、隠岐(おき)の3つの国から成りますが、明治4年の廃藩置県により、島根県、鳥取県、浜田県の3つの県が置かれ、その後いったん統合、
この年になって、いまの島根、鳥取に分かれたのです。
先に書きましたが、能海寛は、向学心旺盛な少年でした。
「外の世界を知りたい」と、望み、浄蓮寺にいることに満足しませんでした。
結局、育ての父、そして檀家を説得して、西本願寺が開校した京都の普通教校に入学します。明治19年3月、能海18才の時でした。
普通教校は、「僧俗共学」を実行した、当時としては画期的な学校でした。
明治になってキリスト教の進出がめざましく、新島譲が設立した同志社英学校に刺激されたこともあります。仏教の危機を救おう、と学生たちも活き活きしていて、能海はその校風に大きな影響を受けました。
そして、その中から恩師、南條文雄(なんじょう・ぶんゆう)との出会いが生じ、「チベット探検の必要」を強く意識するようになるのです。
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EMOTO Yoshinobu 江本嘉伸
著者:江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介