2004年10月18日掲載記事
其の6 「静子との結婚 いざ、チベットへ」
1894(明治27)年1月、能海寛は久々に東京から帰り、故郷の浄蓮寺で正月を迎えました。
新年の行事を終えた1月3日、静まり返った寺の一室で能海は、浄蓮寺檀家にあてた14項目に及ぶ決意を一気に書きしたためました。
「口代(くちがわり)」と題字したこの書は住職・能海寛から檀家一統に対する遺書のようなものでした。
檀家というのは、寺の経済を支えてくれる大きな存在です。
浄蓮寺を継ぐことが決まっていた能海にとって、何年かかるかわからないチベット探検行の難題のひとつは、檀家の説得でした。
2004年10月12日掲載記事
其の5 「10人の日本人がチベットを目指した!」
能海寛は京都の普通教校から学資がなくなったため、いったん郷里の浄蓮寺に帰り、檀家から学資金270円を借ります。そして、1899(明治22)年の暮れ、いよいよ東京へ移るのです。22才のときでした。
慶応義塾で1年学び、91年には哲学館に。いまの東洋大学ですね。著名なサンスクリット語学者、南條文雄のサンスクリット語講義を受けます。チベット行きの必要を説く南條は、以後能海の終生の師となる人です。
学ぶだけでなく、能海はよく旅や登山もやりました。富士登山、伊豆大島旅行などスケッチとともに旅行記が残されています。鍛錬、ということにも熱心で、これは将来のチベット行に備えてのものだったのでしょう。
2004年10月03日掲載記事
其の4 「キリスト教との対決 『反省会雑誌』」
能海寛は書くことが好きな青年でした。34才の生涯で彼は多くのノート類を残しています。日記やスケッチ入りの旅行記もあるが、自分の覚え書き用とみえる乱筆のものも少なくありません。
その一冊に、走り書きで簡単な履歴書が書かれているノートがあります。
明治十年広島教校入学
明治十三年退学
明治十二年十月二十八日 得度
明治十五、一六、十七、十八、二二年 石見学場入学
明治十八年九月 広島教校入学
明治十九年三月 京都本派普通教校入学
二二年 徴兵検査甲種合格
二三年 東京慶応義塾入学
二四年 東京哲学館入学
在東京中余暇ヲ以テ南條師宅ニテ梵学ヲ少々学ぶ
明治二六年十一月世界における仏教徒著述出版一、 賞罰無之
禁酒禁煙明治十九年六月以来
概要これだけの簡単なものですが、最後の「禁酒禁煙明治十九年六月以来」というくだりが、おもしろい。そのことは、著名な雑誌の発刊に関わりますが、あとでふれます。