其の4 「キリスト教との対決 『反省会雑誌』」
能海寛は書くことが好きな青年でした。34才の生涯で彼は多くのノート類を残しています。日記やスケッチ入りの旅行記もあるが、自分の覚え書き用とみえる乱筆のものも少なくありません。
その一冊に、走り書きで簡単な履歴書が書かれているノートがあります。
明治十年広島教校入学
明治十三年退学
明治十二年十月二十八日 得度
明治十五、一六、十七、十八、二二年 石見学場入学
明治十八年九月 広島教校入学
明治十九年三月 京都本派普通教校入学
二二年 徴兵検査甲種合格
二三年 東京慶応義塾入学
二四年 東京哲学館入学
在東京中余暇ヲ以テ南條師宅ニテ梵学ヲ少々学ぶ
明治二六年十一月世界における仏教徒著述出版一、 賞罰無之
禁酒禁煙明治十九年六月以来
概要これだけの簡単なものですが、最後の「禁酒禁煙明治十九年六月以来」というくだりが、おもしろい。そのことは、著名な雑誌の発刊に関わりますが、あとでふれます。
履歴書にあるように、能海寛が西本願寺の普通教校に入学したのは、1886(明治19)年3月のことでした。
すでにふれたように、普通教校(現在の平安高校のことです)は「僧俗共学」をうたい、宗学のほかに普通学も学ぶシステムをとる、 仏教界としては画期的な学校でした。
前回同志社のことにふれましたが、その根底には、実はキリスト教に「対抗する」意図があったのです。
維新後の日本では、福沢諭吉らがもたらした西欧合理主義が大きな影響をもったことはご存知と思います。
西欧に学ぶべし、との気風のなかで、廃仏毀釈で存在自体が問われた仏教に較べ、めざましかったのがキリスト教の進出でした。なかでも、西本願寺お膝元の京都では新島襄の活躍ぶりが目立ったのです。
上州安中出身の新島は、江戸の海軍伝習所で蘭学と航海術を学び、1864(元治1年)アメリカに密出国して10年間滞在する間、キリスト教徒になりました。
明治4年に岩倉使節団が渡欧した際は欧米諸国の教育事情視察にへの同行を許されています。
帰国後の明治8年、国を興すには教育、知識と国民の品行による、との考えからアメリカの組合系ミッションの援助を受けて同志社英学校を創立したのです。
西本願寺法主、大谷光尊(明如上人)が、普通教校設立に踏み切ったのは、同志社の創立をひとつの刺激として、沈滞しがちの仏教界に活を入れたい、との思いからでした。
一方では、東京で著名な仏教哲学者である井上円了(えんりょう)の論壇での活躍がありました。井上は哲学館(現東洋大学)の創始者であり、能海にチベット行きを決意させる南條文雄は、ここでサンスクリット語を教えたことがあります。結果として、能海寛とチベットを結びつける舞台作りの役割も果たしたのです。
東洋は物質文明では西洋に及ばないが、精神文明では決して劣っていない、とする円了の主張とキリスト教批判は、若い仏教徒たちを大いに勇気づけました。
普通教校は、本願寺の坊官職であった、旧下間(しもつま)邸(現在の龍谷大学の位置にありました)をそのまま使用したために、軒は傾き、食堂には狐が出る、と噂されるほどのボロ校舎でした。その一方で国際的素養を身につけよう、との目的から英語を重視し、教科書には原書をもっぱら使用しました。
能海は、英文日記「Wisdom and Mercy(知と慈悲)」という英文日記を残していますが、これはそうした教育の成果とも言えるでしょう。
そういう雰囲気の中で発足した学校だけあって、普通教校の校風は俗人出身の学生たちの蛮風にひきずられました。学生たちは
「器械体操をやめて歩兵操練科を設置してほしい」
「洋服を制服としてほしい」
「寄宿舎の食事を改良して毎朝卵を一個ずつつけてほしい」
など学校側に生活改善要求をつきつけ、退学処分を出す”騒動”もありました。
日本の仏教史においても、教育史においても、言論史においてもきわめてユニークな位置を占める修養組織「反省会」は、そうした独特の空気のなかで誕生しました。
普通教校では、教授会のあと教師たちが酒宴を開くことが習慣となっていました。
その中である教師が、どうしても酒を飲まない、という。酒を飲む側にはそれが面白くありません。この教師がかって同志社で教えていたことが、持ち出され、耶蘇教徒だったら校風に合わない、追い出せ、という声が教師の間に高まったのですね。
そのことを知った学生たちが憤激しました。
そんなことだから、仏教は堕落した、と言われるのだ、大体お釈迦様は、飲酒を禁じているではないか。なのに仏教界ではことあるごとに酒を飲むのが当然となっている。
耶蘇教は葡萄酒を我が血と思え、と儀式でも酒を使っている。しかし、耶蘇教徒は自らは酒を禁じているではないか。だからこそ、いま青年や有識者の心をとらえるのだ。
仏教徒は、大いに反省する必要がある・・・。
かくして、この教師の免職はなくなったが、学生たちは校内だけでなく、この際仏教界の空気も一新すべし、と盛りあがったのです。
まず学生自身が自己反省し、他の人々に反省を促すのがいい、と「反省会」を発足させました。明治一九年四月六日のことです。創設時の同志は十八名でした。
能海寛は、その「反省会」に明治一九年十月十日付けで入会しました。
反省会が果たした大事な役割に、機関誌「反省会雑誌」を 発刊したことがあります。創刊号は、明治二十年八月。西本願寺の仏教者が創刊したこの雑誌は、のちに評論、文学など総合雑誌となり、1998年秋、経営難から読売新聞社の傘下におさまることが決まった「中央公論」の前身です。
記念すべきその創刊号は、1887年(明治20年)に発刊されました。
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EMOTO Yoshinobu 江本嘉伸
著者:江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介