其の5 「10人の日本人がチベットを目指した!」

能海寛は京都の普通教校から学資がなくなったため、いったん郷里の浄蓮寺に帰り、檀家から学資金270円を借ります。そして、1899(明治22)年の暮れ、いよいよ東京へ移るのです。22才のときでした。
 慶応義塾で1年学び、91年には哲学館に。いまの東洋大学ですね。著名なサンスクリット語学者、南條文雄のサンスクリット語講義を受けます。チベット行きの必要を説く南條は、以後能海の終生の師となる人です。 
 
 学ぶだけでなく、能海はよく旅や登山もやりました。富士登山、伊豆大島旅行などスケッチとともに旅行記が残されています。鍛錬、ということにも熱心で、これは将来のチベット行に備えてのものだったのでしょう。

 1893(明治26)年、26才の時、能海は、「世界における仏教徒」という本を出版します。これは、優れた探検計画書でもありました。明治の中期、なぜ日本人が次々とチベットをめざすことになるのか、この本には明確に書かれているからです。能海がチベットに旅立つ5年前のことでした。
 
 このシリーズの冒頭に書きましたが、明治維新は、それまで幕府の保護政策に甘んじていた仏教界に、痛烈な打撃を与えました。神道国教化のために政府が「神仏分離」の政策に踏み切ったため、各宗派内で仏教の存続をかけた議論が巻き起こりました。若い仏教者たちのチベット行は、そうした時代の空気の中から生まれたのです。
 チベット探検のことは、全体で18章から成るこの本の第9章「仏教国の探検」の中に「西蔵国探検ノ必要」として出てきます。
 
 「探検ノ言ハ今日社会ノ流行語一大風潮物ナルカ 此業豈唯社会ノミノ専有物ナランヤ 又以テ仏教徒ノ業ニ移シ得ベキモノナリ・・」
 
 郡司成忠の千島探検、福島安正の単騎シベリア横断など、明治中期は日本人のスケールの大きな探検行動が国民の心をとらえた時代でした。能海は、時代の風を読んで「探検」という言葉を使っています。後に、チベット探検で有名
になった河口慧海(かわぐち・えかい)が著書「チベット旅行記」の「序」でチベット潜入にあたって、「探検」という言葉に否定的な表現をしているのは、一時は哲学館(現東洋大学)に共に学び、ライバルとも言えた能海のこの文章を意識してのことであろう、と私は思います。
 
 さて、ここで能海寛からしばし離れて、目を近代史に転じましょう。
 
 チベットを目指した日本人は、能海寛だけではありませんでした。チベットが中国の支配下に治められる以前、つまりダライ・ラマが政治、宗教の王として君臨していた時代、ラサに潜入をはかった日本人は10人います。  
 そして、チベットと日本を結ぶ物語は、三つの時期に分けられます。全体像を理解するために、時代別に以下簡単な人名メモを付記しておきます。

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 ダライ・ラマ13世の時代
第一グループ(明治時代)
  (仏教の原典を求めての旅。チベット情報を求めての政治的潜入の2つがあった)
   河口慧海 黄檗宗僧侶   1901年(明治34年)3月21日ラサ入り。
   帰国後「チベット旅行記」を発表。漢訳一切蔵経の内容に疑問をもちサ
   ンスクリット語またはチベット語経典の入手を決心。ダージリンで、英国の
   スパイであった、チャンドラ・ダスにチベットとチベット語を学んだ。
 能海寛  東本願寺派僧侶 島根県出身。明治23年4月慶応義塾入学(12月退学し、
              哲学館へ)
              師、南條文雄の志を受け、1893年(明治26年)「世
              界における仏教徒」を書き、チベット行きの必要を説く。
              1901年(明治34年)4月18日付け書簡を最後に不
              明に。「能海寛遺稿」1917年刊行。
 寺本婉雅   同     1900年(明治33年)12月、北京の黄寺で大蔵経入
              手 日蔵の政治工作にも力を発揮。ダライ・ラマ13世と
              東西本願寺を結ぶ役割も。
 成田安輝 外務省特別任務 1901年(明治34年)12月8日 ラサ入り。18日
              滞在。ロシア通の外相、西徳ニ郎の決定で潜入。

第ニグループ(大正時代)
  (冒険旅行、仏教交流)
 矢島保治郎 冒険旅行家 1911年(明治44年)3月ラサ着。1ヶ月滞在。翌19
             12年(明治45年)再度ラサに入り、偶然のようにチベッ
             トに入りこみ、チベット女性と結婚(日蔵の最初の結婚)日
             本帰国後、妻ノブラー失意の死、長男意思信の戦死
 青木文教  西本願寺派遣僧 ラサに3年。帰国後第大蔵経をめぐって河口慧海と対立
       、しかし大谷光瑞の指示で身を引くハメに。
 多田等観  同 セラ大僧院に10年修学 最も長く仏教を学んだ。
  (青木、多田とも大谷光瑞の派遣による) 
 河口慧海(2度目)
       1914年(大正3年)一時、青木の帰国後、河口との間でダライ・ラマ
       下賜の大蔵経をめぐり「大正の玉手箱」事件起きる。大蔵経の入手は、個人
       の名誉の争いの一面もあった。

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 ダライ・ラマ14世の時代
第三グループ(昭和時代)
  (情報)
 野元甚蔵  陸軍特務機関 14世幼少の頃、行列を見る。1年半シガツェ郊外の農村
              に暮す。現在も鹿児島県で健在。
 木村肥佐生 興亜義塾  「チベット潜行十年」のち亜細亜大学教授
 西川一三  同     「秘境西域八年の潜行」盛岡市に健在。
 3人とも、国家を背負ってのチベット潜入だったが、帰国後その情報はほとんど活かさ
れなかった。

 この10人のうち何人の名をご存知でしたか?
 ひとりも知らなくてもいいです。でも、これからは、飛行機も飛ばなかった時代、遥かなるチベットにこれだけの日本人が旅立ち、ある者は帰らなかったのだ、ということに関心を持っていただければ、と思います。

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EMOTO Yoshinobu 江本嘉伸
著者:江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介


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