其の6 「静子との結婚 いざ、チベットへ」
1894(明治27)年1月、能海寛は久々に東京から帰り、故郷の浄蓮寺で正月を迎えました。
新年の行事を終えた1月3日、静まり返った寺の一室で能海は、浄蓮寺檀家にあてた14項目に及ぶ決意を一気に書きしたためました。
「口代(くちがわり)」と題字したこの書は住職・能海寛から檀家一統に対する遺書のようなものでした。
檀家というのは、寺の経済を支えてくれる大きな存在です。
浄蓮寺を継ぐことが決まっていた能海にとって、何年かかるかわからないチベット探検行の難題のひとつは、檀家の説得でした。
すでに「世界における仏教徒」の出版で能海のチベット行きは広く知られていました。将来の住職のために学資を工面してくれた故郷の檀家一同にあらためて能海は今回の企てを説明しなければならなかったのです。
「予ハ全く名利ノ為ニアラズ、愛国護法ノ精神ヨリシテ、コノ決心ヲナス」
「予ノ一生中ノ業ハ只コノ一事ニシテ、ソノ後ニオケルハ、一地方、一区域ニ限ル国ノ為、法ノ為ニ尽力致ス考ヘナリ」
老いたりとはいえ父も健在だし、兄、弟もいざという時には私の代わりをやってくれるだろう。どうか、しばらくの間私を束縛しないで、法のため、国のため自由にやらせて頂きたい。良心に誓って檀家の皆さんに不義理することはない・・・。そんな内容の文章でした。
能海はこの「口代」を書いたあとの2月27日、自分の髪の毛を紙につつみ、箱にしまってこの一文とともに添えました。
「予無事帰国セバ吉祥也 若シ業ノタメニ死サバ、遺体ト思ヒ御葬送ヲ乞フ」
まさに命をかけた、チベット行への決意だったのです。
チベット行きのためにもうひとつやらなければならない大事なことがありました。
東本願寺留学生としてチベット探検の途につくための、本山への申請です。
しかし、能海がチベット行きを決意した直後は、その手続きがしにくい情勢でした。日本と清国との間がにわかにキナくさい雰囲気になったからです。
日清戦争は、積極的な欧化政策により急速な経済発展をとげた日本が、市場を朝鮮に求めようとして清との間に引き起こした市場争奪の戦いです。その宣戦布告の詔勅が発せられたのは、1894年(明治27年)8月1日でしたが、その前から戦争への兆候はいろいろに出ていたのです。
明治日本がはじめて当面したこの戦争にどのような態度で臨むか、仏教界も問われました。そして、浄蓮寺の属する真宗大谷派は8月6日には、法主の現如が、いち早く垂示を発したのです。
「帝国ノ臣民タルモノ、此時ニ際シ、宜シク義勇君国ニ奉スベキハ勿論、殊ニ本宗ノ門徒ニ在テハ、(中略)専心一途報国ノ忠誠を抽し・・」
本願寺は、日清戦争を全面支援し、献金、物資寄付など支援活動を開始しました。これは、のちの日露戦争に引き継がれていきました。
日清戦争が日本の勝利で終わったのは1895年4月でした。翌1896年3月、能海寛は再度上京し、麹町にあった師、南條文雄の家に住み込みました。ここで本山あてチベット行きの「嘆願書」を書き、提出したのです。
その際あわせて出した5項目の「入蔵予定」によると、
1 まず清国に入り、1年を準備にあて、その間、チベットに関する参考書を探し、また同伴者を探し、ラマ僧に扮して商隊にまぎれてチベット入りをはかる。
2 コースは、四川省から東チベットを通ってラサに向かう。
3 年限は往復をいれて5年。
4 目的は、地理、国体、仏教、言語、経典、仏具などの研究。
5 経費は合計600円。
と、なっています。並々ならぬ心でチベットに入ろう、としていることが読み取れますね。
ところで、義父、謙信(3人目の父)は、寛(ゆたか)のチベット行きに否定的でした。しかし、その強い決意を聞いて、最後にこう言いました。
「どうしても、というなら嫁をもらって行け」
妻をめとれば、必ず帰って来るだろう。そのことは、家族のためだけではなく、波佐村300戸の檀家に対しても、安心材料になるー。謙信はそう考えたわけです。
金城に近い、日本海に面した浜田の町に佐々木静子という女性がいました。
謙信とは縁戚にあたり、当時19才。能海とは10才年下の美しい女性でした。
能海は、静子をひと目見て、結婚を決意します。
1898(明治31)年6月29日、二人は浜田市の明清寺で結婚しました。チベットに向けて旅立つわずか3ヶ月前でした。
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EMOTO Yoshinobu 江本嘉伸
著者:江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介