第1回「能海寛・ふるさと100kmトレイル遠足」江本流完走記 其の7

 スタート前日の10月22日夜、ときわ会館で行われた前夜祭で、ふたりの若手ランナーが紹介された。
 ひとりは、私の前を行く女性最年少の林真樹子さん。もうひとりは「男性最年少」のW君。28才。君付けで呼ばせてもらったのは、彼が中国新聞の記者であることに、一方的に親近感を覚えたからだ。
 私は30数年新聞記者の仕事をしたが、走り出したのは40才になってからだ。 記者は車に乗ってふんぞり返っていてはいけない、足で書くものだ、とか「不惑」になってから急ごしらえの適当な理屈をつけて忙しい時間の中、それでも以後は、よく走りつづけたと思う。
 しかし、28才頃といえば社会部の事件記者となったばかりで、とてもとてもランニングなんて雰囲気ではなかった。

 W君は、その年令で参加した。それだけで立派だ、と思ったのである。
 その彼が64.2キロ地点で、リタイア宣言をした。むむ。少し残念な気がする。
 自分の窮状を棚に上げて、早速尋ねる。
 「以前は結構走ってたんでしょう?」
 「いや、それは高校生の頃ですよ。今はまったく走っていません。もう限界です」というようなことをW君は言った。
 そうか。大学時代のランナーではなかったのか。長いブランクに加えて多忙な仕事でほとんどトレーニングできなかったとすれば、100キロ挑戦はきつかったろうな。
 でも、出走した心意気を良し、としよう。ともかくも62キロ走ったことは記者の仕事にとっても悪くないであろう。
 
 少しだけ取り残された気分をかかえつつ、ひとり温井(ぬくい)ダムを背にのろのろ進む。まだまだこの先ずっと坂道が続くのだ。
 1年前の試走会の体験から、ノロノロ走っても、歩いてもあまり変わらないもんだ、と自分に言い聞かせ、長い坂はできるだけ歩き続ける作戦だった。
 でも、やはりやはり、走ると歩くでは違うのである。
 傾斜のゆるい場所では走るようにしたら、なんとか続くではないか。まあ、よそから見たら走っているうちに入らないかもしれないが、ともかく切れ目なく前進するのがいい。 
 スタッフの車が行ったり来たりしている。私を含めしんがりに近いランナーの様子を心配してくれているのであろう。どんなふうであれ、心配してくれている人たちがいるというのは心強い。ここは、簡単にタクシーも止まらない場所なのだ。
 観念しつつ、のろのろ進みながら、時間の計算を何度もする。いまのまま行けば、なんとか制限時間内でゴールできるはずだ。最後は長い下り坂だから、どうにか走りきれるだろう。しかし、座り込んだらおしまいだ。
 王泊ダムの橋の手前に11番目のエイドがあった。72.7キロ地点。先行していた林さんがちょうど出てゆくところだった。頑張っているが、足の痛みは辛そうだ。
 やがて、林さんに追いついた。膝の痛みと疲れは相当なようで、座ってテーピングをやり直している。
 こちらも余裕がないので、これから先はお互いのペースで行くことにする。闇の中をひとり走る時が心配だが、ご両親が車でつかず離れず見守っておられるので大丈夫であろう。
 実はこの時、一瞬だけ迷った。意欲に溢れた、地元の若い林さんのゴールはこの大会で大事なことと思ったからだ。しかし、一緒に走ったからといって必ずゴールできるわけでもない。何よりも「ゼッケン1」をもらった私のゴールは何はおいても大事だ。
 調子悪いとか言いながら、ここまでともかく頑張ったのだ。
 私は、必ず時間内にゴールする、と決意した。

 毎度のことだが、エイドはありがたい。こんなに遅いランナーにも励ましの言葉とともに飲み物やレモン、アンパンを差し出してくれる。78.4キロの「芸北町上細見バス停」あたりでだいぶ陽が傾きかけた。ほんの数えるほどになったランナーを長時間待ってくれているスタッフに感謝の気持ちが増す。 
 このあたりから、クマが好きな柿の木に注意しつつ走る。人家はあまりないだけに、クマ君は登場しやすいであろう。
 登りから樹林帯に入る。すでにライトは点けているが、このあたり、暗くなるとわかりにくいかも、と試走会で思ったところだ。道は一本道なのだが、「暗闇」という脅威が加わると、世界は変わる。
 実際、いくら進んでも次のエイド地点であるコース終盤のヤマ場、「専光寺」へ通じる道が見えてこない。急に心配になった。スピードは遅くとも時間内ゴールできるようかなり細かく計算しながら走っているので、“道迷い”だけはあってはならないのだ。
 明るいうちなら、まったく問題のない場所だった。でも、心配になった私は海宝さんに電話した(ケータイ電話は100キロ大会ではいつも携行している)。
すんません、念のためですが・・、とコースを聞いたのである。
 ゴール地点で次々にゴールインするランナーたちを迎えつつ、突然コースを聞かれて海宝さんはさぞびっくりしたことだろう。いや、そのままでいいと思いますよ、と私の進行方向を聞いて答えた。すいません、海宝さん、万一別の道に入り込んだら・・、とやけに心配になったもので。
 うまい具合に、ライトの光が近づいた。さきほど抜いた熟年ランナーが追いついてきたのだ。ほっ、とした。まず、間違いないのだろう。しばらくふたりで平走しながら、専光寺を目指す。
 明るいうちに通過する人がほとんどだろうが、暗くなって山道を走る人は、十分注意したほうがいい。明るい街中とは全く違う状況がそこには起きているから。勿論しっかりしたライトは必携だ。

 能海寛(のうみ・ゆたか)が少年時代を過ごした「専光寺」にバテバテでたどり着いた時、日が暮れた(山道ではもっと早い時刻に暮れる)。84.6キロ地点。あと15キロだ。
 専光寺は、能海の2番目の父、法憧(ほうしょう)の生家である。法憧は33才の若さで病死し、寛は、8才の年、亡父の生家に預けられた。当時このあたりでは子どもは14才ぐらいまで他の家に預けられて修行するのが一般的だった。能海は、9才で広島市の進徳教校に入学し、学問に目覚めてゆくのである。
 専光寺では、熱いぜんざいが用意されていた。そして、貴重なコウタケ(皮茸)のお握り。疲れた身が癒されるもてなしだった。
 
 いま午後6時25分だから、制限時間の9時まであと135分ある。
 5キロを45分のペースで行けば、大丈夫なんだな。お茶を頂きながらひと息いれている時、寺の人の声が耳に入った。
 「いま、大きな地震があったらしいんや」
 関東方面でかなりの地震が・・?
 月明かりに助けられてよたよた走りながら、ほんとうに今年はいろいろ自然災害が襲ってくるな、と思う。
 中越大地震のすさまじい破壊をこの時は想像もできなかった。(続く)

**********************************
EMOTO Yoshinobu 江本嘉伸
著者:江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介


Comments