第1回「能海寛・ふるさと100kmトレイル遠足」江本流完走記 其の8(最終回)

手厚いもてなしがありがたかった専光寺から、いったんコースを少し戻り、いよいよ最後の15キロに挑戦する。
 とうにライトの世界になっているが、月の光に助けられて、点灯する時間は案外少ない。けれども時に樹林にさえぎられて暗闇となる部分があり、そんな場合は足元を照らさないと、一歩も進めない。スピード・ランナーは別としてライトがなければ、この大会は参加できない、と思う。
 やがて広い平原のような場所に出る。いまは暗いので、その「平原感」がわかりにくいが、明るいうちに通過したランナーたちは、いささか気落ちしただろう。ちょうど北海道の原野をつっきるように道がまっすぐに伸びており、はるか右前方にはサイロにも似た建物が見える。変化の多かったこれまでのコースに較べて突然風景が動かなくなり、いくら頑張って走ってみてもなかなか進んでいる感じがしないのだ。そのことを1年前の試走会で体験した。

しかし、幸か不幸か夜に入ってしまえば、距離感もくそもない。闇の中をとろとろ進むだけだ。北海道の原野感覚は味わえないが、遠い地平線にうんざりすることもない。ここを越えれば・・、との希望だけを頼りに進む。
 コースは温井ダム付近を含めずっと幹線道路である国道186号をたどっている。それが専光寺方面に立ち寄るために、いったん国道からわき道に入っていた。いま走っているのは、その迂回路で、間もなく広い国道に出る頃だ。
 前方から人が来た。エイドのスタッフだった。そろそろ心配してくれているのだろう。 186号線に出たところに、14番目のエイドである「186交差点やまびこ前」のスタッフたちが待ってくれていた。何人かは車にピックアップされたようだから、もう私を含めてほんの2、3人しか走っていない、と思う。何度も言うが、こういう支援は、心がこもっていて、ほんとうにありがたい。水や食料があるからではなく、そこに人が待っていてくれることがありがたいのでる。
 ここで89.8キロ。右折して県境をめざす。あと10キロ!
 能海寛が妻の静子と別れた傍示峠を越えると、島根県に入った。
 
<1898(明治31)年10月4日、波佐村は晴れわたった。能海寛は浄蓮寺で午前6時に起き、勤行を終えて8時、いよいよ出発となった。
 義父の謙信、母イクノ、新妻の静子ら家族、檀家一同ら数十人が集まり、浄蓮寺上流の「歳の原」というところまで見送った。5銭、10銭、1円、と皆が餞別をくれ、合計5円14銭の餞別に自分が所持する3円56銭、母からの1円を加え合計9円70銭が旅立ちの日の全所持金だった。(渡航費用は、後、東本願寺から給付された)。
 別れを告げる能海に、謙信はひとこと言った。
 「堪忍大事なり」
 生きて帰ってこい、との気持ちがそのひとことにこめられていた。
 「別レテノチ片時モ忘ルベカラザル金言 我が性ヲ見テイサメラレタル慈言ナリ」と、能海は義父の謙信の心に感謝した。日頃は温厚な能海だが、何かの折に、カッとなる体質があり、謙信はチベットへの旅の途次、そういう事態だけは避けよ、と諭したのである。 皆と別れたあとも、なお弟の春谷登、新妻の静子がつき添い、11時すぎ、ついに別れることになった。
 静子との日々は長いものではなかったが、彼女の存在の大きさに内心能海は、驚いていたのではないか。自分ひとりだけの人生とこんなに違うものか、とあらためて感じていたにちがいない。
 とはいえ、はじめからこの日を覚悟しての結婚であった。
 「ご無事で・・・」と低い声で別れを告げる妻に、能海は「大丈夫だ。必ず帰る」とだけ多分言って、歩き出した。
 それが、ふたりの永遠の別れとなった。>
 
 上の文章は、『能海寛 チベットに消えた旅人』(求龍堂)という本の中で書いた能海の出立の日の様子だ。能海の寺、浄蓮寺は、波佐の村人たちにとって大事な菩提寺である。チベットに行くためには、所属する東本願寺の許可とは別に故郷の檀家の了解が必要だった。チベット行を前にしての静子とのあわただしい結婚は、必ず帰ってきます、留守は妻が預かります、という、一種の“証文”のような意味も持ったのだろう。その新妻と最後に別れたのが広島県との県境である傍示峠だった。能海は傍示峠を越えて広島に向かった。
 その県境は、意識しないと見落としてしまうくらいにひっそり示されている。傍示峠の表示はないようだった。
 島根県に入ったら、ほとんど下り一本だ。時計を見ながら、飛ばしがちに下る・・と言いたいが、思ったほどには足は飛ばなかった。昨年の試走会では最後のこの下りをびゅんびゅん飛ばせたので、なんとなく楽観していたのだが、当たり前のことながら、遅いランナーは時間がたてばたつほど、どんどんバテているのだ。
 
 下り道にはいくつかトンネルがある。防雪のためのものもあるのだろう。そ
のひとつに15番目、最後のエイドがあった。
 午後8時20分になっている。95キロ地点だからあと40分で5キロを走れば、ぎりぎ
りセーフだ。登りだったらやばいが、下りなので余裕を持って走りきれそうだ。
 このあたり、取材の旅で何度も通り、地形を知っているので気分的には楽だった。いよいよ浄蓮寺を見下ろすあたりまで来た。もう少しだ。次第に坂が平坦になってくると、スタート地点のときわ会館が見えてきた。ついに、ついに、と言うのは早かった。
 会館が見えるところで左折、浄蓮寺をぐるりめぐってゴール地点に向かうようになっていて、その「ぐるり」が意外に長いのである。これは試走会では取らなかったコースで、予想もしていなかった“最後の苦戦”を強いられた。それは、くねくね曲がる道がゆるやかながら登り気味のせいでもある。あと数キロともなると、ほんの少しの傾斜、長さが身体にこたえるのだ。
 でも、どうにかついに浄蓮寺にたどり着いた。ああ、この10数年、何度も何度も来た場所だが、こんなに遠回りして来ることになるとは・・。
 山門の石段を登り、右手の顕彰碑に立つ。

 のぞめども 深山(みやま)の奥の 金沙江 
    つばさなければ わたりえもせず

 1899(明治32)年8月、能海寛は四川省の奥地、チベット圏のパタン(巴塘)まで迫った。一時はあっさり通行を認めそうだった地方政府は、一転「これより先の進行を許さず。引き返すべし」と通告する。つかの間の喜びと、大いなる落胆・・。
 パタン滞在中のある日、能海は単身、宿を出て20キロ離れた川べりの牛古渡(ニュークトウ)という地まで歩いて行った。単独行動は禁止されていたから、「殆ど死地に入るの心地したり」の心境だった。
 そして、金沙江(揚子江の上流)の岸辺で、対岸のチベットを見やりながら、無念の思いを一首に託した。
 いま、顕彰碑に彫り込まれているのが、その一首である。
 
 第1回大会では完走者は、ゴールではなく、この顕彰の碑を前に記念撮影をすることになっている。私もフラッシュ入りで貴重な一枚を撮ってもらった。
 やれやれ。あと1キロだ。時間的には大丈夫、最後をゆっくり味わいながら行く。
 走りなれた川沿いの道を行くと、皆さんが待ってくれているゴールだった。
拍手と歓声を頂く。よかった、心配をかけたが責任を果たせて。15時間56分12秒。あと4分足らずで締め切りだった。
 波佐のご婦人たちがつくってくれたおいしいトン汁は終わっていたが、もうひとつの柚子湯は十分残っていた。その、なんと甘くおいしかったこと!何杯もおかわりを頂く。
 ひと息入れてから、もう一度浄蓮寺に行った。林真樹子さんのことがどうしても気になったのだ。膝を痛め、下りでさらにしごかれ、それでも林さんは自力でたどり着いた。浄蓮寺の階段を下りるのは辛そうだったが、最後まで頑張り、関門に1時間06分遅れながら見事100キロを走りきった。
 第1回大会で地元島根出身の林真樹子さんの参加は、とても意味のあることだった、と私は思う。できることなら膝を直した林さんと、またこの大会で再会したいものだ。
 素晴らしかった!、と多くの参加者が口をそろえた第1回「能海寛・ふるさと100kmトレイル遠足」。第2回も、さらにさまざまな出会いがあることだろう。今回はやや心配をかけた不肖私も、もう少し余裕を持って出走するつもりである。(完)

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EMOTO Yoshinobu 江本嘉伸
著者:江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介


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