其の7「いよいよ大陸へーチベットの旅の開始」

  第2回「能海寛・ふるさと100kmトレイル遠足」に参加される予定のウルトラ・ランナーの皆さん、または能海寛という人間に少しでも関心をお持ちの皆さん、昨年の第1回大会前に6回まで書き続けながら、未完のままとなっている歴史ドキュメント「能海寛って、誰?」、時間がたってしまいましたが、再開します。
 能海寛(のうみ・ゆたか)は、明治の時代を駆け抜けた、知られざる探検家、求道者、仏教者です。100キロをゆっくり走りながら、1世紀以上も前、チベットの地から帰らなかった旅人のことに思いを馳せてくだされば、幸いです。

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 今回から、能海寛のチベット行の足跡を追います。

 チベットを目指す能海寛が故郷の波佐村を出発する時の様子は、「第1回『能海寛・ふるさと100kmトレイル遠足』江本流完走記」の「其の5」の中で少し書いているので参照してください。明治31(1898)年10月4日でした。結婚してわずか3か月の新妻、静子ら家族、檀家一同ら数十人に見送られて、能海は旅立ったのです。
 
 川伝いに広島へ出て、京都の本山を訪ねたのが10月7日。能海は東本願寺派遣の留学生ですから、旅券の取得と経費の支出の手続きをやらなければならない。ついでながら海外渡航が自由にできるようになったのは、1964年、東京オリンピックの年ですから、能海の時代、それが途方もなくタイヘンなことであった、と想像がつきます。
 
 能海にとってショックだったのは、ここまで来て本山での手続きがいっこうに進まないことでした。能海がはじめに目指す予定の重慶の政情が不安で渡清に影響が出ている、だからもうちょっと待て、と言われるのです。「渡清」とは清に渡ること、当時中国は清朝の時代でした。
 
 チベット行きの手続きを通して本山の内部の人間模様を知ることになり、その現実にがっかりしたようです。「本山ノ馬鹿者ソロヒニハアキレ果テタル次第」と、当時の日記に書いているんですが、なんだか身につまされますね。
 新妻・静子へ毎日のように手紙か葉書を書くことがこの時の能海の慰めでした。10月12日には、こんなセンチメンタルな日記を書いています。
 「静宛葉書認め、夜十時半ねる。さびしさは 秋はまさるとしりしかど なけてさびしき 此の秋のくれ」
 さらに10月15日の日記。
 「毎日毎日不平不満 鬱々として不快 見るもの聞くもの 思う事考ふる事一として不愉快ならざるはなし かなしきと さびしきと じれったきと、夜、静へ近状・・」
 チベット行を目前に、不屈の男、能海寛もさすがに一時は弱気になったことがうかがえます。

 実は、当時本山には深刻な財政窮迫の問題がくすぶっていました。事務職員への給料も未払いという事態で、能海ひとりチベットへ旅立つ金を作るにもままならなかったようです。待つこと1ヶ月、能海は本山の実力者にかけあい、なんとか「11月12日出立していい」との許可を得ます。その足ですぐ東京へ立ち、11月7日新橋着。すぐ麹町の恩師、南條文雄(なんじょう・ぶんゆう)を訪ね、「チベット行き決行」を報告しました。

 南條文雄については、このシリーズの「其の2 能海寛の恩師の留学と、ダライ・ラマの選考」の中で結構詳しく紹介しました。能海にチベット行の必要を説いた、高名なサンスクリット語学者です。南條は「道中、ムリするな」と言い、10円を餞別として弟子に贈りました。能海が故郷を立った時の所持金に匹敵する大金でした。
 翌11月8日、能海は外務省に行ってチベット行きを説明し、緊急事態が生じた際の特別保護願いをします。9日には、神田で南條も参加して賑やかに「送別会」が開かれ、10日、能海は東京を後にします。
 
 11月11日、京都の本山へ戻った能海は、ここで僧衣とダライ・ラマあて東本願寺法主・大谷光榮からの親書を受け取ります。
 旅費もようやく支給されました。能海は、チベット探検経費として1000円を見積もっています。そのうち三分の一の370円を受け取りました。重慶までの旅費と重慶滞在五か月分の滞在費の名目です。旅券もようやく入手。夕刻には送別会が開かれましたが、夜の8時には、汽車で神戸に移動します。
 1898年(明治31年)11月12日午前11時、能海寛は、神戸を西京丸(2913トン)で出航しました。東本願寺の留学生たちと一緒でした。チベット探検を宣言して6年、能海寛はついにその地に向かうことができたのです。

 ところで、このシリーズの「其の5  10人の日本人がチベットを目指した!」で、書いたように、明治のこの時期チベットを目指したのは、能海寛だけではありませんでした。チベット探検の必要を訴え、自身現地に行くことをもっとも早くから鮮明にしていた能海ですが、皮肉なことにいよいよ日本を発つという時は、三人の日本人がわずかの差で次々にチベットに向かって旅立った後でした。

 ひとりは、後で『チベット旅行記』で有名になる河口慧海(かわぐち・えかい)です。前年の1897年6月に神戸を出航し、インドでチベット通のサラット・チャンドラ・ダスと会った河口は、ダージリンのハイスクールでチベット語の勉強に明け暮れました。準備を終え、チベット行きのためにいったんカルカッタに戻るのは1899年1月5日です。

 もうひとりは、東本願寺の僧、愛知県海東郡出身の寺本婉雅(てらもと・えんが)です。真宗大学で学んでいましたが、チベット行きを志して退学、能海より5か月早い1898年6月、上海に向けて旅立ちました。ただし、寺本は両親に支援されての私費の旅でした。

 能海寛の出航を前に、もうひとりの風変わりな旅人が動き出していました。
 
 一通の外務省機密文書があります。
 日付は「明治三十年十二月二十二日起草」とあるから能海の日本出発の一年前ですね。
 こんな内容です。

 「機密 
                 成田安輝
 
 右西蔵探検ノ為渡航セシムルニ付テハ先以テ重慶ニオイテ十二ヶ月間留学ノ上満五ヵ年(出発ノ日ヨリ帰朝ノ日マデ)ヲ期シ目的地へ赴カシムベク之ヲ要スル一切ノ費用ハ機密金ヨリ支出ヲ要ス
 追テ重慶ヨリ西蔵行ノ旅費ハ別ニ取調ノ上経伺スベキコト」

 成田安輝(なりた・やすてる)という人間が機密の任務を帯びてチベットに行くことになった。それも重慶での修学に1年、チベットに入ったら4年、という期間の設定ですから本格的です。
 
 ようやくチベットに向かうというのに、能海寛の前途にはいろいろな波風が立ちそうです。
 神戸から門司、長崎と寄港しながら西京丸は平穏に海路を進み、11月16日午後1時には上海に着きました。上海には東本願寺の別院があります。ここで、同船していた留学生たちは南京、蘇州、杭州にそれぞれ旅立って行き、能海ひとりが残されました。
 上海には21日まで滞在し、同夜、天竜川丸(410トン)に乗りこみます。長江を遡る旅の始まりでした。

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EMOTO Yoshinobu 江本嘉伸
著者:江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介


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