其の9「能海寛、雲南から帰らず」(最終回)
20世紀最初の日、1901(明治34)年の元旦を、能海寛は重慶で迎えました。
この日、能海は日本の南條文雄に新年のあいさつをこめて手紙を綴ります。
元日のあいさつのあと、日本を出て三度目の新年というのにチベット行がまだ成功していないことを恐縮する言葉から始まり、ただし、志はいささかも後退していない、と次のように書きました。
「二月初旬頃、雲南に相向ふ予定に御座候」
なんと、雲南省からチベット入りを目指す、というのです。
当時、鎖国状態だったチベットに入るルートは三つありました。四川省、青海省、雲南省からのルートです。
四川省から入り、金沙江を前に無念の涙をのんだあと、能海は青海省からのチベット入りをねらいました。しかし、宿で旅の荷やお金を取られて無一文となり、いったん引き返しました。
3度目の挑戦として、こんどは雲南からにチベットに向かおう、と決意したのです。
其の8「無念の金沙江」
長江は、チベット高原に発し、中国大陸を東西に貫く、全長6380キロ、アマゾン、ナイルに次ぐ世界第三の大河です。流域は農業が盛んで人口が多く、川そのものが人々の交通手段ともなっています。
1898(明治31)年11月21日上海から日本の「天竜丸」に乗った能海は、11月30日、今度は清国招商局の汽船「固陵号」に乗りかえて5日間遡行し、12月4日、宜昌に着きました。上海から千哩、つまり1600キロのぼったことになります。
ここから切り立った崖がせばまり、極端に狭い水路となる「三峡の険」と呼ばれる有名な難所を進み、1899(明治32)年1月8日朝、日本総領事館のある重慶に無事到着しました。師である南條文雄が書いた紹介状が事前に届いており、四川、雲南、貴州、西蔵への護照(旅行免状)が取得されていたことに、能海は大いに幸先がいい、と喜びました。
其の7「いよいよ大陸へーチベットの旅の開始」
第2回「能海寛・ふるさと100kmトレイル遠足」に参加される予定のウルトラ・ランナーの皆さん、または能海寛という人間に少しでも関心をお持ちの皆さん、昨年の第1回大会前に6回まで書き続けながら、未完のままとなっている歴史ドキュメント「能海寛って、誰?」、時間がたってしまいましたが、再開します。
能海寛(のうみ・ゆたか)は、明治の時代を駆け抜けた、知られざる探検家、求道者、仏教者です。100キロをゆっくり走りながら、1世紀以上も前、チベットの地から帰らなかった旅人のことに思いを馳せてくだされば、幸いです。
其の6 「静子との結婚 いざ、チベットへ」
1894(明治27)年1月、能海寛は久々に東京から帰り、故郷の浄蓮寺で正月を迎えました。
新年の行事を終えた1月3日、静まり返った寺の一室で能海は、浄蓮寺檀家にあてた14項目に及ぶ決意を一気に書きしたためました。
「口代(くちがわり)」と題字したこの書は住職・能海寛から檀家一統に対する遺書のようなものでした。
檀家というのは、寺の経済を支えてくれる大きな存在です。
浄蓮寺を継ぐことが決まっていた能海にとって、何年かかるかわからないチベット探検行の難題のひとつは、檀家の説得でした。
其の5 「10人の日本人がチベットを目指した!」
能海寛は京都の普通教校から学資がなくなったため、いったん郷里の浄蓮寺に帰り、檀家から学資金270円を借ります。そして、1899(明治22)年の暮れ、いよいよ東京へ移るのです。22才のときでした。
慶応義塾で1年学び、91年には哲学館に。いまの東洋大学ですね。著名なサンスクリット語学者、南條文雄のサンスクリット語講義を受けます。チベット行きの必要を説く南條は、以後能海の終生の師となる人です。
学ぶだけでなく、能海はよく旅や登山もやりました。富士登山、伊豆大島旅行などスケッチとともに旅行記が残されています。鍛錬、ということにも熱心で、これは将来のチベット行に備えてのものだったのでしょう。
其の4 「キリスト教との対決 『反省会雑誌』」
能海寛は書くことが好きな青年でした。34才の生涯で彼は多くのノート類を残しています。日記やスケッチ入りの旅行記もあるが、自分の覚え書き用とみえる乱筆のものも少なくありません。
その一冊に、走り書きで簡単な履歴書が書かれているノートがあります。
明治十年広島教校入学
明治十三年退学
明治十二年十月二十八日 得度
明治十五、一六、十七、十八、二二年 石見学場入学
明治十八年九月 広島教校入学
明治十九年三月 京都本派普通教校入学
二二年 徴兵検査甲種合格
二三年 東京慶応義塾入学
二四年 東京哲学館入学
在東京中余暇ヲ以テ南條師宅ニテ梵学ヲ少々学ぶ
明治二六年十一月世界における仏教徒著述出版一、 賞罰無之
禁酒禁煙明治十九年六月以来
概要これだけの簡単なものですが、最後の「禁酒禁煙明治十九年六月以来」というくだりが、おもしろい。そのことは、著名な雑誌の発刊に関わりますが、あとでふれます。
其の3 「能海寛の得度と向学心」
1880(明治12)年10月、11才の秋、能海寛は「得度」のため、ひとり京都の東本願寺まで旅をしました。
「得度(とくど)」とは、僧侶の資格を得ることです。
「度」は「渡」と同じ意味で、もともとは、迷いのこの世から悟りの世界へ渡ること、もしくは「輪廻の流れを渡る」ことを意味したそうです。
そのことから転じて剃髪して僧籍に入ることを指すようになった、といわれています。
それにしても、11才の少年が歩き、舟に乗って京都めざして旅する姿は、のちのチベット探検の折の青年僧の行動力を思い出させます。
其の2 「能海寛の恩師の留学と、ダライ・ラマの選考」
能海寛(のうみ・ゆたか)の少年時代と、当時のチベット情勢の話をしばらくします。あっちこっち、話題が飛んですぐには頭に入ってこないかもしれませんが、細かいことはどんどん忘れてしまってください。
明治とは、そういう時代だったんだ、チベットって、案外日本と関わりがあったんだな、というようなことを、ぼんやりわかってもらえればそれでいい、と思います。
其の1「能海寛って、誰?」
能海寛(のうみ・ゆたか)ふるさと100キロを走る、あるいはどんな大会なのか関心をお持ちのランナーの皆さんに、10月の大会に向けて能海寛について、少しでも理解を深めていただければ、と思い、海宝さんのHPを借りて短かい連載をはじめることにします。テーマは、旅、チベット、仏教、です。チベットは、ヒマラヤ山脈の北の広大なひろがりです。首都ラサは標高3600メートルと、ほぼ富士山の高さに近い。その地をめざして、百年以上も前、どうして日本の青年僧が動き出したのか。走る前、あるいは走りながらなんとなく考えていただけたら、と思います。
江本 嘉伸(えもと よしのぶ)さんのご紹介
江本嘉伸(えもと・よしのぶ)
1940年10月横浜生まれ。東京外国語大学卒。ジャーナリスト。大学ではロシア語を専攻したが、5年間山岳部生活に没頭。読売新聞記者になってからも、登山経験を活かし、南北両側からのエヴェレスト登山取材、北極、中央アジア、チベット横断、黄河源流探検、モンゴル遊牧草原取材、チンギス・ハーンの陵墓を探る「日本モンゴル合同ゴルバンゴル学術調査」などの取材、調査にあたる。モンゴルには1987年以後20回以上訪れ、1994年、モンゴルジャーナリスト同盟から外国人としてはじめて「最優秀ジャーナリスト」に選ばれる。